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龍宮神社の由緒〜現代まで

龍宮神社の御由緒をお話し致しますね。

【御祭神】

龍宮神社は、底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神、豊受姫命、大物主神、大毘古命、そしてこの社を建立した榎本武揚の遠祖である桓武天皇の七柱の神様をお祀りしています。

【ご利益】

航海安全、五穀豊穣、病気平癒、武運長久、学業成就、立身出世のご利益があります。

【御由緒】

明治の初め、御鎮座地である小樽のこの地は、まだまだ茫漠たる土地であり、人もほとんど住んではおりませんでした。

その頃、蝦夷地と呼ばれていた北海道の開拓使として、榎本武揚が任命され、北海道開拓の任を担いました。

榎本武揚肖像画

榎本武揚という人物は、幕末の箱館戦争で、旧幕府軍の総大将として新政府軍と最後まで戦いながら敗北し、投獄されました。

本来であれば、死罪を免れない状況でありましたが、戦った目的も旧幕臣たちの生活の守るためのものであり、戦に関しても残虐な行為はせず、国際的ルールのもと、捕虜であっても人道的に紳士的に扱いました。

戦況を冷静に分析し、敗北を悟った時、武揚がオランダから持ち帰り自分で翻訳した海律全書という貴重な書物を、これはこれからの日本にとって盾となり矛となるものである。自分たちは最後まで戦うが、この日本にとっての宝が海の藻屑になっては決していけない」と言って敵軍に渡しました。

我が国の将来を憂う高き志、その優秀さ、人徳の深さを感じ、敵軍の大将であった黒田清隆が頭を丸坊主にしてまで、榎本武揚の助命を懇願したのです。

明治維新の頃に国を指導して言った志士たちは、国の将来のためには命をかけて自分の信念を貫く高い志を持った人たちでした。

榎本武揚は、北海道の開拓に当たっては、天然の良港を持った小樽が、物資の輸送や経済の拠点になると考えました。そして、不安に包まれながらも、この新天地に夢を抱いて渡道してきた人々が、安心して過ごせる様に心の支えとなる社を建立しました。

それがこの龍宮神社です。

龍宮神社の社殿

御鎮座地は、すでに小祠が建立されており、創立年は遠く蝦夷時代に遡ります。

古老の口伝によると、往古アイヌ人たちが祭場として海路安泰や海幸祈願、熊祭を行うためにイナウを立て祭事を行っていた神聖な地でした。

イナウとは木片を削り御幣の様な形をした祭具としたもので、神への捧げ物や神自身を意味する神聖な祭具です。

当時江差で龍宮教会の神主であった本間豊田は、榎本武揚に依頼を受け、北海道の開拓に縁故ある大神や、御威徳の深い人等を合祀し、榎本武揚が揮毫した『北海鎮護』という書を頂き、初代宮司として奉職することになりました。

北海鎮護の書

江差から御神体を担いで来た本間豊田は、神様が御鎮座するのにふさわしい場所を探していましたが、この地にたどり着いた時、「海の中から神々しい光が集まり、その光の玉が御神体に乗り移った」と言いました。

あたかも海の神様である龍の玉のように見えたそうです。

明治14年、明治天皇が北海道御巡幸の際、小樽御代巡を命じられた左大臣の有栖川宮幟仁親王殿下に神社命名を依頼し、『龍宮殿』の御染筆を戴き、翌年社名としました。

実は有栖川宮幟仁親王は函館戦争の時の新政府軍の総裁であり、龍宮神社の拝殿には箱館戦争の旧幕府軍と新政府軍の敵同士の大将の書が仲良く、隣り合って並んでいます。

その後、一条実孝公爵より『龍宮神社』と揮毫して戴き、大正5年龍宮神社と改称、昭和16年に現在の社殿に改築しました。

平成20年には榎本武揚公没後100年記念祭を行い、榎本武揚の記念像を建立しました。

榎本武揚像

その際に『100年目の仲直り』という意味を込め、新政府軍の中心人物であった大久保利通の子孫である麻生太郎氏が、当神社を正式参拝され、オンコ(一位)の木を境内に植樹されました。

麻生太郎氏の植樹のオンコ

その1ヶ月後、麻生氏はまさに日本の一位である内閣総理大臣立身出世されました。

そうしたこともあり、当神社は、海の神様、五穀豊穣、医療の神様であることはもとより学問のご利益、立身出世のご利益を求め、多くの方々が参拝される様になりました。

そして平成29年、榎本武揚の御子孫より榎本家に代々大切に所蔵されている、榎本武揚が隕石から作った神秘の力を持つ霊剣『流星刀』を龍宮神社に奉納戴きました。

流星刀

そしてまた、最近流行となっている御朱印に書かれた『龍宮神社』言霊(ことだま)は、竜宮城の昔話から、はやぶさ2号が到達した惑星リュウグウという無限の宇宙や、AIという未来に至るまで、人類憧れの言霊である様に思えます。

はやぶさ2模型